小説 「夜香木」 第一章・・・
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「夜香木」 紅殻格子
一・
暖やかな陽射しの中、海辺に初老の男がひとり佇んでいた。
夏には海水浴で賑わうこの海岸も、梨の白い花が盛りの今は、人影も疎らにしか見られない。
波静かな海面で乱反射する光の帯の眩しさに、金山和夫は目を細めた。
そして二,三度小さく頷くと、満足そうに微笑んだ。
(多少無理はしたが、ここに別荘を買ってよかった・・・)
和夫は胸のポケットのタバコを探ると、徐に火をつけた。
高度経済成長、そしてオイルショックを経て低成長時代へ――和夫は日本経済をひとりで背負うかのごとく、三十年間がむしゃらに働き続けた。
五十路を過ぎ、会社への減私奉仕の代償として、和夫は一流企業の部長という肩書きを手にすることができた。
しかし順調な会社人生も、和夫には先が見え始めていた。バブルの崩壊の不況を乗り切るために、会社はリストラと幹部の刷新を断行するだろう。
とすれば良くて子会社へ役員待遇で出向、悪ければ窓際の閑職に甘んじなければならない。
脇目も振らず会社人生を走り続けてきた和夫は、ふと路傍に立ち止まり、初めて歩んできた道を振り返って愕然とした。
(この三十年、私は会社のためだけに生きてきたようなものだ。
残業と接待の毎日、たまの休日も決まってゴルフ・コンペだ。
靴と神経を擦り減らし、己の体を犠牲にしてまで会社の為に働いてきた。
我々の年代では当たり前の人生観であり、これぞ日本人の美徳と称賛されるべき三十年のはずだった。
しかし時代は変わり、我々の世代のライフ・スタイルは過去の遺物となってしまった。
いやむしろ現代社会から敵視されていると言うべきか。
家庭生活からはお荷物扱い、頼みの綱の会社からも手の裏を返されたような冷遇・・・)
吐き出したタバコの煙が潮風にたなびき、青い空へ溶けていくのを和夫はぼんやりと目で追った。
(この日本人の価値観の変化は、戦後の軍国主義から民主主義への変節、それに匹敵するものかもしれない。それにしても日本人は何事においても切り換えの速い民族だ)
つづく・・・