『合 わ せ 鏡』 第六章
『合 わ せ 鏡』
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(六)
白衣の看護婦が慌ただしく動き回る病院も、窓から差し込む西日が長い影をつくる時間になると、人の姿も疎らで、不気味なほど閑散としている。
早紀はこつこつと靴音を響かせ、医局へ通じる暗い廊下を歩いていた。
高座中央病院は、ベッド数三百を誇る高座市最大の医療施設である。
同時に、早紀が担当する神奈川県県央において、最も患者数が多い基幹病院でもあった。
先週、課長に威勢よく啖呵を切ったものの、高血圧治療薬アダミットの売上を倍増させるのは、容易なことではなかった。
だが早紀の心中には勝算がなくはなかった。
それは高座中央病院での処方を増やすことだった。
医薬品の売上を伸ばすオーソドックスな方法は、地区の中核となる病院で処方数を増やすことだ。腐るほど薬の数があるこの時代、医師も安心して使える薬がわからず迷っている。
だから地域の高度医療を担う大病院がアドミットを使えば、周囲の中小病院や開業医は、何もしなくても、右へ倣えで勝手に使ってくれるのだ。
だが肝心な高座中央病院で、アダミットの処方数は未だ低迷していた。
早紀は医局のドアを開けると、入院患者の回診を終えた若手の医師たちがテレビを見たり雑誌を読んだりしてくつろいでいた。
早紀は田中浩司の姿を見つけて近づいた。
「この間ご紹介したアダミットですが、何例かご処方戴けましたか?」
田中はこの病院で最も多い患者数を抱える中堅の内科医だった。
早紀は田中を何度か接待して、人間関係を築いてきた。
早紀の描いている目論見は、田中を落としてアダミットを処方させることだった。
「ああ、谷口さん、ごめん、なかなかその薬に合った患者さんがいなくてね」
「そうですか。でも降圧効果は他剤に負けませんし、副作用も少ないですから…」
「まあ、それはわかるんだけど、その、いろいろとしがらみがあってさ。暗黙のルールってやつかな」
「暗黙のルール?」
「あ、ごめん。ちょっと急患がいるから」
田中は口を濁すと、早紀から逃げるように医局を出て行った。
早紀は釈然としないものを感じながら医局を後にした。
高座中央病院の内科医師は、大半が同じような反応を示した。
だが今日初めて聞いた『暗黙のルール』という言葉に、早紀はアダミットの効能効果以外に、何か大きな壁があることを知らされた。
つづく…
皆様から頂く
が小説を書く原動力です
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白衣の看護婦が慌ただしく動き回る病院も、窓から差し込む西日が長い影をつくる時間になると、人の姿も疎らで、不気味なほど閑散としている。
早紀はこつこつと靴音を響かせ、医局へ通じる暗い廊下を歩いていた。
高座中央病院は、ベッド数三百を誇る高座市最大の医療施設である。
同時に、早紀が担当する神奈川県県央において、最も患者数が多い基幹病院でもあった。
先週、課長に威勢よく啖呵を切ったものの、高血圧治療薬アダミットの売上を倍増させるのは、容易なことではなかった。
だが早紀の心中には勝算がなくはなかった。
それは高座中央病院での処方を増やすことだった。
医薬品の売上を伸ばすオーソドックスな方法は、地区の中核となる病院で処方数を増やすことだ。腐るほど薬の数があるこの時代、医師も安心して使える薬がわからず迷っている。
だから地域の高度医療を担う大病院がアドミットを使えば、周囲の中小病院や開業医は、何もしなくても、右へ倣えで勝手に使ってくれるのだ。
だが肝心な高座中央病院で、アダミットの処方数は未だ低迷していた。
早紀は医局のドアを開けると、入院患者の回診を終えた若手の医師たちがテレビを見たり雑誌を読んだりしてくつろいでいた。
早紀は田中浩司の姿を見つけて近づいた。
「この間ご紹介したアダミットですが、何例かご処方戴けましたか?」
田中はこの病院で最も多い患者数を抱える中堅の内科医だった。
早紀は田中を何度か接待して、人間関係を築いてきた。
早紀の描いている目論見は、田中を落としてアダミットを処方させることだった。
「ああ、谷口さん、ごめん、なかなかその薬に合った患者さんがいなくてね」
「そうですか。でも降圧効果は他剤に負けませんし、副作用も少ないですから…」
「まあ、それはわかるんだけど、その、いろいろとしがらみがあってさ。暗黙のルールってやつかな」
「暗黙のルール?」
「あ、ごめん。ちょっと急患がいるから」
田中は口を濁すと、早紀から逃げるように医局を出て行った。
早紀は釈然としないものを感じながら医局を後にした。
高座中央病院の内科医師は、大半が同じような反応を示した。
だが今日初めて聞いた『暗黙のルール』という言葉に、早紀はアダミットの効能効果以外に、何か大きな壁があることを知らされた。
つづく…






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