『合 わ せ 鏡』 第七章
『合 わ せ 鏡』
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(七)
高座中央病院の薬局は、外来受付の隣に大きな部屋を構えていた。
早紀が薬局のドアを開けると、白衣姿の葛西京子が一人で棚の薬を整理している。
「葛西先生、まだ帰られないのですか?」
「あら、谷口さん、六月から新しく採用する薬剤が増えるので、薬剤棚を開けておこうと思ってね」
京子は今年四十歳になる薬剤師である。
中学生の子供のいる人妻だか、その理知的な容貌と小柄でスリムな体型から、三十代半ばで十分通用するほど若く見える。
同じ薬科大学の先輩にあたり、早紀は特に親しくしてもらっていた。
立派に仕事をこなしながら、家庭にも深い愛情を注ぐ京子に、早紀は憧れに近い感情を抱いていた。
京子は手を休めて早紀に椅子を勧めた。
「アダミットの処方、あまり伸びないわね」
早紀の沈んだ顔を見て、京子は悩みを見透かしたようだった。
「ええ、それで困っているんです」
早紀は先ほどの田中医師の反応について相談してみた。
「暗黙のルール?」
京子はその言葉に眉をひそませた。
「田中先生の口振りでは、アダミットを使いたくても使えない掟があるみたいでした」
京子は腕組みをして、銀縁のメガネの奥に切れ長の瞳を輝かせた。
「…野崎院長のことかしら?」
クールな印象を与える京子の薄い口唇が、その名前を告げた時、早紀ははっとして、その男の顔を思い浮かべた。
病院の前で黒塗りの車に乗る野崎明を、何度か見たことがあった。
五十代前半だが、エネルギッシュな髭を蓄えた精悍な顔立ちをしていた。
大病院の院長ともなれば名誉職で、外来患者を診察することはあまりない。
また普段は院長室にこもって医局へは姿を見せないので、MRにすれば、営業の対象にならない雲の上の存在でしかなかった。
「でも院長先生が何故?」
「だって野崎院長は高血圧治療の権威よ。しかもアドミットのライバル薬の開発に携わった経緯もあるでしょ」
「ああ…」
早紀は目の前が真っ暗になった。
情報収集がたりなかったことを痛感し、課長との約束を悔やんだ。
京子はしばらく何も言わず黙っていたが、何かを決心したような顔で、ふぅと小さく息を吐いた。
「野崎院長に会ってみる?」
「えっ、面談できるんですか?」
「頼んであげてもいいわよ」
「…でも、高血圧の権威を説得できる自信は…」
早紀は小さく首を振った。
「それはあなた次第よ。私が与えられるのはチャンスだけ」
京子はきりっと瞳を見開いて早紀を見据えた。
がけっぷちに立つ早紀にできることは、ただ頷くことだけだった。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
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早紀が薬局のドアを開けると、白衣姿の葛西京子が一人で棚の薬を整理している。
「葛西先生、まだ帰られないのですか?」
「あら、谷口さん、六月から新しく採用する薬剤が増えるので、薬剤棚を開けておこうと思ってね」
京子は今年四十歳になる薬剤師である。
中学生の子供のいる人妻だか、その理知的な容貌と小柄でスリムな体型から、三十代半ばで十分通用するほど若く見える。
同じ薬科大学の先輩にあたり、早紀は特に親しくしてもらっていた。
立派に仕事をこなしながら、家庭にも深い愛情を注ぐ京子に、早紀は憧れに近い感情を抱いていた。
京子は手を休めて早紀に椅子を勧めた。
「アダミットの処方、あまり伸びないわね」
早紀の沈んだ顔を見て、京子は悩みを見透かしたようだった。
「ええ、それで困っているんです」
早紀は先ほどの田中医師の反応について相談してみた。
「暗黙のルール?」
京子はその言葉に眉をひそませた。
「田中先生の口振りでは、アダミットを使いたくても使えない掟があるみたいでした」
京子は腕組みをして、銀縁のメガネの奥に切れ長の瞳を輝かせた。
「…野崎院長のことかしら?」
クールな印象を与える京子の薄い口唇が、その名前を告げた時、早紀ははっとして、その男の顔を思い浮かべた。
病院の前で黒塗りの車に乗る野崎明を、何度か見たことがあった。
五十代前半だが、エネルギッシュな髭を蓄えた精悍な顔立ちをしていた。
大病院の院長ともなれば名誉職で、外来患者を診察することはあまりない。
また普段は院長室にこもって医局へは姿を見せないので、MRにすれば、営業の対象にならない雲の上の存在でしかなかった。
「でも院長先生が何故?」
「だって野崎院長は高血圧治療の権威よ。しかもアドミットのライバル薬の開発に携わった経緯もあるでしょ」
「ああ…」
早紀は目の前が真っ暗になった。
情報収集がたりなかったことを痛感し、課長との約束を悔やんだ。
京子はしばらく何も言わず黙っていたが、何かを決心したような顔で、ふぅと小さく息を吐いた。
「野崎院長に会ってみる?」
「えっ、面談できるんですか?」
「頼んであげてもいいわよ」
「…でも、高血圧の権威を説得できる自信は…」
早紀は小さく首を振った。
「それはあなた次第よ。私が与えられるのはチャンスだけ」
京子はきりっと瞳を見開いて早紀を見据えた。
がけっぷちに立つ早紀にできることは、ただ頷くことだけだった。
つづく…
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