『捨 て 犬』 第七章
『捨 て 犬』
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(七)
夢なら早く冷めてくれと、梅原はそっと太股をつねった。
だが目の前にある妻の顔は、ますます般若のように怒気を含むばかりだった。
給料を運ぶしか能のない夫―それは小説かテレビドラマだけの絵空事だと思っていた。
しかし我が家に限ってという梅原の過信は、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
梅原は寂しいという感情よりも、恐怖に近い不安に苛まれた。
それは見知らぬ街にぽつんと置き去りにされたような孤独感だった。
(この先、誰のために生きればいいんだ)
会社からも、そして家庭からも必要とされなくなった梅原は、凍える冬の街路をさまよう捨て犬の姿に自分をだぶらせた。
シンポジウム会場の膨れ上がる喧騒に、梅原はふと我に返った。
当初、梅原はこのシンポジウムを欠席するつもりでいた。
だが担当地区の親しい医師たちが出席する都合上、梅原が不在では義理を欠くという配慮から、支店長に出席を命じられたのだ。
それさえなければ英子と顔を合わす恐れがあるこの会場から、今すぐにでも逃げ出してしまいたい心情だった。
担当地区の親しい医師三人に挨拶した梅原は、手持ちぶさたに会場の隅でぼんやりと立っていた。
その時、地味な服装の男性医師の中、華やかな薄桃色のスーツをまとった女性が会場に入ってきた。
富岡英子だった。
梅原はなるべく目立たない位置から、そっと英子の出で立ちを窺った。
(えっ…)
梅原は絶句した。
日頃無造作に束ねていた黒髪は、明るい栗色に染められ、柔らかなウエーブを描きながら、豊かに肩へとかかっている。
すっきりと描かれた眉と、明るい紫色のアイカラーで飾られた瞳は、若い娘には真似できない成熟した女の艶を放射している。
眉間に皺を寄せ、声を荒げてMRを罵倒する鬼婆とは別人の英子がそこにいた。
隣で揉み手をする支店長と話すその口元には、人妻らしいゆとりのある色気が迸っている。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
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夢なら早く冷めてくれと、梅原はそっと太股をつねった。
だが目の前にある妻の顔は、ますます般若のように怒気を含むばかりだった。
給料を運ぶしか能のない夫―それは小説かテレビドラマだけの絵空事だと思っていた。
しかし我が家に限ってという梅原の過信は、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
梅原は寂しいという感情よりも、恐怖に近い不安に苛まれた。
それは見知らぬ街にぽつんと置き去りにされたような孤独感だった。
(この先、誰のために生きればいいんだ)
会社からも、そして家庭からも必要とされなくなった梅原は、凍える冬の街路をさまよう捨て犬の姿に自分をだぶらせた。
シンポジウム会場の膨れ上がる喧騒に、梅原はふと我に返った。
当初、梅原はこのシンポジウムを欠席するつもりでいた。
だが担当地区の親しい医師たちが出席する都合上、梅原が不在では義理を欠くという配慮から、支店長に出席を命じられたのだ。
それさえなければ英子と顔を合わす恐れがあるこの会場から、今すぐにでも逃げ出してしまいたい心情だった。
担当地区の親しい医師三人に挨拶した梅原は、手持ちぶさたに会場の隅でぼんやりと立っていた。
その時、地味な服装の男性医師の中、華やかな薄桃色のスーツをまとった女性が会場に入ってきた。
富岡英子だった。
梅原はなるべく目立たない位置から、そっと英子の出で立ちを窺った。
(えっ…)
梅原は絶句した。
日頃無造作に束ねていた黒髪は、明るい栗色に染められ、柔らかなウエーブを描きながら、豊かに肩へとかかっている。
すっきりと描かれた眉と、明るい紫色のアイカラーで飾られた瞳は、若い娘には真似できない成熟した女の艶を放射している。
眉間に皺を寄せ、声を荒げてMRを罵倒する鬼婆とは別人の英子がそこにいた。
隣で揉み手をする支店長と話すその口元には、人妻らしいゆとりのある色気が迸っている。
つづく…
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