『捨 て 犬』 第六章
『捨 て 犬』
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(六)
都心の一流ホテルには、一日の診察を終えた医師たちが三々五々集まり始めていた。
『小児喘息シンポジウム』と横断幕が高々と掲げられたメイン会場は鮮やかな生花がそこかしこに配られ、三百ほどの座席は今や遅しと開演の時を待ち詫びていた。
受付前のロビーでは、MRがずらりと並んで担当地区の医師の到着を待ち受けている。
他社のMRに邪魔されず、日頃忙しい医師を独占できるチャンスとあって、開会前から彼らの面持ちは意欲に漲っていた。
そんな華やかな盛況を、梅原は影のように壁にもたれて見ていた。
(富岡先生は来るのだろうか…)
運営担当者に確認したところでは、今のところパネリストの変更はないと言う。
梅原は苦々しくあの雪の日を思い返した。
富岡クリニックを後にした梅原は、すぐに会社に戻ってあらましを支店長に報告した。
年下の支店長は激怒した。
「MRとしてあるまじき行為だ!」
年上の梅原に遠慮がちだった支店長は、日頃の鬱憤をはらすように罵倒した。
そして会社に害をなす人間など不要だと、遠回しに早期退社を希望するようくどくどと説いた。
MRとしてあるまじき行為であることは、ベテランの梅原も重々承知している。
その件で弁解の余地はない。
だが社員のミスにつけこんで退職を迫る会社の姿勢に、梅原は怒りと諦めを覚えた。
翌日、梅原は早期退社を申し出た。
それは簡単に受理された。
ただちに富岡クリニックの後任担当者が決められ、支店長とその後任が英子の元に挨拶に行った。
梅原は一切に表に出るなと言われ、退社時期は来月末にしてくれと要望された。
早坂と違って子供が成人している梅原は、残りの会社人生にそれほど未練はなかった。
夫婦二人なら、アルバイトでも食いつなげるはずだ。
一年くらいのんびりしてから、再就職を探せば上々だと安直に考えていた。
だが妻は烈火の如く激怒した。
「勝手に自分で会社を辞めておいて、何が、夫婦二人ならなんとかなる、よ!」
長年家庭をほったらかしにしてきた梅原の罪を、妻はこれでもかと責めたてた。
「やっと子育てからも解放されて、自分の時間を楽しめると思っていたのに、一年も家でゴロゴロされたら息が詰まるわ」
梅原は妻の本音に愕然とした。
従順で大人しいはずの妻が、まさか夫の存在をそんな風に考えていたとは俄かに信じられなかった。
「それに老後の蓄えはどうするつもり?普通は子供が成人してから定年までの間に、しっかりと貯金しておくものなのよ。それなのに後先なしに会社を辞めるなんて、狂気の沙汰としか思えないわ。すぐに新しい就職先を探しなさい。さもなければ離婚よ!」
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
「黄昏時、西の紅色空に浮かぶ三日月」に戻る
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都心の一流ホテルには、一日の診察を終えた医師たちが三々五々集まり始めていた。
『小児喘息シンポジウム』と横断幕が高々と掲げられたメイン会場は鮮やかな生花がそこかしこに配られ、三百ほどの座席は今や遅しと開演の時を待ち詫びていた。
受付前のロビーでは、MRがずらりと並んで担当地区の医師の到着を待ち受けている。
他社のMRに邪魔されず、日頃忙しい医師を独占できるチャンスとあって、開会前から彼らの面持ちは意欲に漲っていた。
そんな華やかな盛況を、梅原は影のように壁にもたれて見ていた。
(富岡先生は来るのだろうか…)
運営担当者に確認したところでは、今のところパネリストの変更はないと言う。
梅原は苦々しくあの雪の日を思い返した。
富岡クリニックを後にした梅原は、すぐに会社に戻ってあらましを支店長に報告した。
年下の支店長は激怒した。
「MRとしてあるまじき行為だ!」
年上の梅原に遠慮がちだった支店長は、日頃の鬱憤をはらすように罵倒した。
そして会社に害をなす人間など不要だと、遠回しに早期退社を希望するようくどくどと説いた。
MRとしてあるまじき行為であることは、ベテランの梅原も重々承知している。
その件で弁解の余地はない。
だが社員のミスにつけこんで退職を迫る会社の姿勢に、梅原は怒りと諦めを覚えた。
翌日、梅原は早期退社を申し出た。
それは簡単に受理された。
ただちに富岡クリニックの後任担当者が決められ、支店長とその後任が英子の元に挨拶に行った。
梅原は一切に表に出るなと言われ、退社時期は来月末にしてくれと要望された。
早坂と違って子供が成人している梅原は、残りの会社人生にそれほど未練はなかった。
夫婦二人なら、アルバイトでも食いつなげるはずだ。
一年くらいのんびりしてから、再就職を探せば上々だと安直に考えていた。
だが妻は烈火の如く激怒した。
「勝手に自分で会社を辞めておいて、何が、夫婦二人ならなんとかなる、よ!」
長年家庭をほったらかしにしてきた梅原の罪を、妻はこれでもかと責めたてた。
「やっと子育てからも解放されて、自分の時間を楽しめると思っていたのに、一年も家でゴロゴロされたら息が詰まるわ」
梅原は妻の本音に愕然とした。
従順で大人しいはずの妻が、まさか夫の存在をそんな風に考えていたとは俄かに信じられなかった。
「それに老後の蓄えはどうするつもり?普通は子供が成人してから定年までの間に、しっかりと貯金しておくものなのよ。それなのに後先なしに会社を辞めるなんて、狂気の沙汰としか思えないわ。すぐに新しい就職先を探しなさい。さもなければ離婚よ!」
つづく…
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