『捨 て 犬』 第四章
『捨 て 犬』
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(四)
しかし若いMRたちが揶揄する通り、最近の英子の不機嫌さは度を越えていた。
噂では、クリニックの事務方を一任していたベテラン女性の結婚退職が原因らしい。
後任の育成もおぼつかないまま、英子自身が事務も兼務する状態が続いており、その多忙さでヒステリックが悪化していると言う。
また別の噂では、夫婦仲がかなり悪くなっているからだとも言われている。
英子は三年前、五つも年下の若い男と結婚した。
彼は売れない写真家で、生活の糧を英子に頼っている。
結婚当初は芸術家の妻として我慢もできたのだろうが、いつまでも自立できない夫に業を煮やしていさかいが絶えないらしい。
梅原には英子の私生活などどうでもいいのだが、そのとばっちりが身に降りかかることだけは避けなければならない。
(遅刻はまずいぞ)
梅原はハンドルを握る手が汗ばんでくるのを感じた。
富岡クリニックのドアを開けた時、約束の時間を十分ほど過ぎていた。
待合室は会計を待つ患者が一人残っているだけで、がらんとして不気味に静まり返っていた。
窓口で顔見知りの薬剤師に挨拶し、梅原は診察室の扉を開けた。
「失礼します」
広い診察室で、英子はポツンと机に向かって食事をしていた。
来訪者に振り返ろうとしない。
梅原はその白衣を背中にかなりの怒りを見て取った。
「先生、遅れて申し訳ありません。雪で渋滞していまして…」
その言葉にピクッと英子の肩が震えた。
「何を言っているの!子供の使いじゃあるまいし、くだらない言い訳なんかするんじゃないわよ!」
振り向きざま、英子は梅原に罵声を浴びせかけた。
髪を無造作に束ねた化粧っ気のない顔は、鬼婆に相応しい憤怒の表情をしていた。
英子は決して不器量ではない。むしろ美人の部類に入る顔立ちだ。
だがその端正さが、却って怒りの表情を凄惨に見せている。
「本当に申し訳ございません」
梅原は海老のように腰を折り、ただひたすら詫び続けた。
「謝って済む問題じゃないわ。あなたが十二時に面談を申し込んできたでしょう?こっちは忙しいのに時間を空けて待っていたのよ。それを何の連絡もなしに、十分も遅刻するとは何事なの?非常識よ!」
英子の言い分は正しい。時間に遅れた梅原に非があるのは確かだ。
だがそのヒステリックな物言いに、不快感を禁じえなかった。
「お許し下さい、先生」
梅原はぐっと堪えた。 ここで英子に臍を曲げられては困る事情があるのだ。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
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しかし若いMRたちが揶揄する通り、最近の英子の不機嫌さは度を越えていた。
噂では、クリニックの事務方を一任していたベテラン女性の結婚退職が原因らしい。
後任の育成もおぼつかないまま、英子自身が事務も兼務する状態が続いており、その多忙さでヒステリックが悪化していると言う。
また別の噂では、夫婦仲がかなり悪くなっているからだとも言われている。
英子は三年前、五つも年下の若い男と結婚した。
彼は売れない写真家で、生活の糧を英子に頼っている。
結婚当初は芸術家の妻として我慢もできたのだろうが、いつまでも自立できない夫に業を煮やしていさかいが絶えないらしい。
梅原には英子の私生活などどうでもいいのだが、そのとばっちりが身に降りかかることだけは避けなければならない。
(遅刻はまずいぞ)
梅原はハンドルを握る手が汗ばんでくるのを感じた。
富岡クリニックのドアを開けた時、約束の時間を十分ほど過ぎていた。
待合室は会計を待つ患者が一人残っているだけで、がらんとして不気味に静まり返っていた。
窓口で顔見知りの薬剤師に挨拶し、梅原は診察室の扉を開けた。
「失礼します」
広い診察室で、英子はポツンと机に向かって食事をしていた。
来訪者に振り返ろうとしない。
梅原はその白衣を背中にかなりの怒りを見て取った。
「先生、遅れて申し訳ありません。雪で渋滞していまして…」
その言葉にピクッと英子の肩が震えた。
「何を言っているの!子供の使いじゃあるまいし、くだらない言い訳なんかするんじゃないわよ!」
振り向きざま、英子は梅原に罵声を浴びせかけた。
髪を無造作に束ねた化粧っ気のない顔は、鬼婆に相応しい憤怒の表情をしていた。
英子は決して不器量ではない。むしろ美人の部類に入る顔立ちだ。
だがその端正さが、却って怒りの表情を凄惨に見せている。
「本当に申し訳ございません」
梅原は海老のように腰を折り、ただひたすら詫び続けた。
「謝って済む問題じゃないわ。あなたが十二時に面談を申し込んできたでしょう?こっちは忙しいのに時間を空けて待っていたのよ。それを何の連絡もなしに、十分も遅刻するとは何事なの?非常識よ!」
英子の言い分は正しい。時間に遅れた梅原に非があるのは確かだ。
だがそのヒステリックな物言いに、不快感を禁じえなかった。
「お許し下さい、先生」
梅原はぐっと堪えた。 ここで英子に臍を曲げられては困る事情があるのだ。
つづく…
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