『プリザーブドフラワー』第四章
『プリザーブドフラワー』
4
長い廊下が続き、その突き当たりに、葉子が闘病生活を送る病室の扉がある。
十メートルほどの直線だが、そこへは永遠に辿り着けないような距離感があった。
平田の心には、葉子から逃げた罪悪感が深く根を張っていた。
「葉子・・」
平田は自分を勇気づけるように小さく呟いた。
冷たい靴音が響く。
やがて目の前に聳え立った鋼の扉は、明らかに平田が中へ入ることを拒んでいるように見えた。
葉子は夫と離婚した後、五十一歳になる今日まで独りで生きてきた。
社内で浮ついた男の噂もなかった。
葉子の両親は疾うに他界していた。
この病室の奥で、誰にも見守られることもなく、葉子は独り病魔と闘っている。
平田は、己の不誠実さがもたらした後ろめたさに、ただただ扉の前で煩悶するしかなかった。
葉子は末期癌と宣告されていた。
十年前、葉子が乳癌で一年間会社を休んだのは知っていた。
左乳房は切除したものの、今すぐ生死に係わることはないと耳にしていた。
癌の部位が部位だけに、平田は見舞いに訪れなかった。
治癒して日常生活に戻った葉子だが、密かに癌細胞は体の中で増殖を繰り返していた。
骨に転移していたのだ。
再び放射線治療が始まったが、すでに体中に広がった癌細胞は、医学の力ではもう取り除くことはできなくなっていた。
葉子には麻薬で痛みを和らげる治療しか残されていなかった。
もう数週間の命だと医師から宣告されているらしい。
山田の話では、麻薬のためにうつらうつらしている時間が多く、調子が良い時でなければ面会も難しいと言う。
つづく…