『蟻地獄』 第五章
『蟻地獄』
五
和彦は柱の陰に身を隠して聞き耳を立てた。
「昨日、同期の飲み会で、玲子が告白して振られたらしいわ」
「彼女、アイドル系で可愛いじゃない」
「でも彼、高山課長の奥さんみたいな女性が理想だって断ったらしいの」
不意に三年前結婚した妻が会話に現れ、和彦はどきっと胸を高鳴らせた。
「えっ、高山課長って確か今年四十五歳でしょう。すると奥さんは・・」
「ところが奥さんはまだ三十二歳なんですって・・それも結婚する前は、銀座のクラブで鳴らした美人らしいわよ」
「ひえぇ、あの真面目一筋の高山課長が、どうして年が一回りも若い美人ホステスと?」
いつしか川崎の噂話は、和彦の結婚話に様変わりしていた。
居たたまれなくなった和彦は、トイレへ行くのを諦めて自分のデスクに戻った。
和彦はぼんやりとパソコンの画面を見つめた。
(・・妻が理想の女性か)
おそらく世の亭主であれば、お世辞でも嬉しい褒め言葉なのだろう。
だが和彦にとっては、どこか不安に心を曇らせる呪文でしかなかった。
白昼夢が蘇ってくる。
初めての恋人を親友に寝取られた和彦は、心の奥底に巣食う人間不信に苛まれてきた。
妻と出会うまで長年独り身だったのも、心の古傷を再び化膿させるのが恐かったからだ。
突然、背後で大きな声がした。
「高山課長、何やっているんですか。一時から会議ですよ!」
後ろを向くと、噂の主である川崎が会議室の前で手を振っていた。
屈託のない川崎の笑顔は、溌剌とした無垢な若々しさに溢れている。
和彦は小さく首を横に振った。
(・・考えすぎだ)
川崎の明るさを前にすると、和彦の病んだ心の黒い影も消え失せてしまう。
「すまん、今行くよ」
笑いながら返事した和彦は、古傷をそっと庇いながら、書類を持って会議室へ足早に歩いて行った。
つづく…
「黄昏時、西の紅色空に浮かぶ三日月」に戻る
五
和彦は柱の陰に身を隠して聞き耳を立てた。
「昨日、同期の飲み会で、玲子が告白して振られたらしいわ」
「彼女、アイドル系で可愛いじゃない」
「でも彼、高山課長の奥さんみたいな女性が理想だって断ったらしいの」
不意に三年前結婚した妻が会話に現れ、和彦はどきっと胸を高鳴らせた。
「えっ、高山課長って確か今年四十五歳でしょう。すると奥さんは・・」
「ところが奥さんはまだ三十二歳なんですって・・それも結婚する前は、銀座のクラブで鳴らした美人らしいわよ」
「ひえぇ、あの真面目一筋の高山課長が、どうして年が一回りも若い美人ホステスと?」
いつしか川崎の噂話は、和彦の結婚話に様変わりしていた。
居たたまれなくなった和彦は、トイレへ行くのを諦めて自分のデスクに戻った。
和彦はぼんやりとパソコンの画面を見つめた。
(・・妻が理想の女性か)
おそらく世の亭主であれば、お世辞でも嬉しい褒め言葉なのだろう。
だが和彦にとっては、どこか不安に心を曇らせる呪文でしかなかった。
白昼夢が蘇ってくる。
初めての恋人を親友に寝取られた和彦は、心の奥底に巣食う人間不信に苛まれてきた。
妻と出会うまで長年独り身だったのも、心の古傷を再び化膿させるのが恐かったからだ。
突然、背後で大きな声がした。
「高山課長、何やっているんですか。一時から会議ですよ!」
後ろを向くと、噂の主である川崎が会議室の前で手を振っていた。
屈託のない川崎の笑顔は、溌剌とした無垢な若々しさに溢れている。
和彦は小さく首を横に振った。
(・・考えすぎだ)
川崎の明るさを前にすると、和彦の病んだ心の黒い影も消え失せてしまう。
「すまん、今行くよ」
笑いながら返事した和彦は、古傷をそっと庇いながら、書類を持って会議室へ足早に歩いて行った。
つづく…
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