『妻の娼婦像』 第一章
隠されていた絵を見て敬一は愕然とした。
こんもりと形の良い乳房とくびれたウエスト
澄ましたその顔は確かに妻の晶子で―
『妻の娼婦像』
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(一)
都心から郊外に向かう急行列車は、立錐の余地もないほど混雑していた。
互いに体を接着剤でつけられたように、身じろぎひとつできない。
夜八時、乗客のほとんどは帰路を急ぐサラリーマンだった。
大島敬一は吊革にぶら下がりながら、なんとかハンカチを取りだして額の汗を拭った。
梅雨時の満員電車は地獄だ。高温多湿で車窓は曇り、押し合う隣人の体温が気持ち悪い。
入り混じった安酒と下品な香水の匂いが鼻に突く。
不快な列車の中、乗客たちは羊のような従順さで黙って耐え忍んでいる。
幸運にも席に座れた者は、皆、頭を垂れて眠っている。
先ほどまで熱心に経済新聞を読んでいたOLも、今はだらしなく両脚を開いて船を漕いでいる。 座れなかった乗客は、駅売りの夕刊を開くことも寝ることも許されず、気の抜けたような顏で押し黙っている。
(皆、疲れているようだな)
心身ともに疲労のピークに達した乗客たち。
中でも四、五十歳の中年サラリーマンの疲れた姿に敬一はつい目を走らせてしまう。
この私鉄の沿線は新興住宅地で、乗客の多くはマンションや一戸建てを購入した住人である。
いくら地価が下がっても、サラリーマンの薄給で買える家は、都心から一時間半以上の通勤を伴う。
だがそんな僻地でも若くして家を持つなど並大抵のことではなく、定年間近にしてやっと手に入れた、ということも珍しくはない。
たとえ自分の城を構えても、住宅ローンが死ぬまで重い足枷となる。
ローン返済のためには、会社にしがみくしかない。
手当のつかないサービス残業を快く引き受け、休日も上司の下手くそなゴルフに拍手を送る。
こうして一生を会社に捧げた報酬が、狸の縄張りを荒らすような場所に建てたマッチ箱の家一つなのだ。
しかし敬一はそんな彼らを羨望の眼差しで見ていた。
激務に疲れ果てた表情の中には会社を担う自負が、しょぼくれた背中に家族を養うプライドが滲んでいた。
(それに比べて…)
漆黒の車窓に写る自分の姿に、敬一は我が目を疑った。
周囲の乗客たちと同じ背広姿なのに、自分だけがどこか煤けて見すぼらしく見えた。
錯覚かもしれないが、乗客たちは敬一が既に自分たちの仲間ではないということを見破っているように感じられた。
ふいに敬一は深い孤独感に襲われた。
半月前、敬一は二十年務めた会社を解雇された。
リストラである。
四十二歳、小学校に通う子供を抱え、敬一は毎日のように職安通いと採用の面接を繰り返していた。
(惨めな社会の脱落者か)
乗客たちの冷たい視線が背中に刺さり、嘲笑う声が聞こえるようにも感じる。
敬一は軽蔑と侮辱の幻影に堪えながら、一刻も早く駅に着かないかと思った。
駅に列車が着くと、敬一は逃げるようにバス停まで走った。
そして停車しているバスの後部座席の隅に身を隠した。
(まさか自分がリストラされるとは…)
敬一は車窓を流れる街並みを横目に呟いた。
新聞、テレビが騒ぎ立てているリストラが、敬一自身に降りかかろうとは夢にも思っていなかった。
つづく…
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