『合 わ せ 鏡』 第九章
『合 わ せ 鏡』
FC2 Blog Ranking
(九)
ヨーロッパの館を思わせるアンティークな内装に、ムーディーなピアノの調べが漂う仄暗いホールは、紳士たちの上品な談笑で微かにざわめいていた。
金沢一格式の高いクラブ『蝶』。
異次元の空間に脚を踏み入れた早紀は、場違いな雰囲気に身のすくむ思いがした。
「野崎先生、今年は美人の秘書をお連れで羨ましいわ」
胸元が大きく開いたイブニング・ドレスの女が、静かにブランデーを注いだ。
「いやぁ、全く。野崎先生は艶福家だから」
と、夜の蝶にかしずかれた三人の老人が笑った。
三人は、早紀もその名を知る医学界の大御所たちだった。
午前中、小松空港に着いた野崎と早紀は、この三人の高名な内科医と合流し、地元大学の教授陣と昼食を共にした。
そして兼六園や武家屋敷を観光した後、金沢屈指の料亭で、テレビでよく見かける政治家との晩餐会に出席した。
早紀は野崎の秘書という肩書で同行したが、全てがVIP待遇で、改めて野崎の政治力を目の当たりにした。
一介のMRでは、声をかけることすら憚られる三人の医師は、ホステスそっちのけで早紀に話しかけてきた。
「谷口君、先生方はすっかり君のファンになったみたいだな」
野崎がわざとやっかむような口振りで、会話に入ってきた。
「あ、ありがとうございます」
早紀は困惑を隠せず、ぎこちなく礼を述べるのが精一杯だった。
「では先生方のご厚志にこたえて、今年の人間ドックは、先生方に診察して戴くことにしたまえ」
三人は膝を打って大笑いし、早紀のどの部位を診察するかで大いに盛り上がった。
明日講演があることを理由に、野崎と早紀は三人と別れ、黒塗りの車で駅前にそびえる高層ホテルへと向かった。
「あの三人の先生は俺の大切な後ろ盾だ。学会の期間中、ご機嫌を損ねないように注意してくれ」
野崎は本物の秘書に対するかのような口調で、早紀に指示を出した。
そして膝の上に置かれた早紀の手に、さりげなく手を伸ばした。
「後で私の部屋に来たまえ」
車の後部座席で、野崎は早紀の手を握りながらそう耳元で囁いた。
早紀は野崎の毛深い手を拒まなかった。
(仕事のため…)
懸命に自分にそう言い聞かせた。
それだけが今の早紀に与えられる免罪符だった。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
「黄昏時、西の紅色空に浮かぶ三日月」に戻る
FC2 Blog Ranking
(九)
ヨーロッパの館を思わせるアンティークな内装に、ムーディーなピアノの調べが漂う仄暗いホールは、紳士たちの上品な談笑で微かにざわめいていた。
金沢一格式の高いクラブ『蝶』。
異次元の空間に脚を踏み入れた早紀は、場違いな雰囲気に身のすくむ思いがした。
「野崎先生、今年は美人の秘書をお連れで羨ましいわ」
胸元が大きく開いたイブニング・ドレスの女が、静かにブランデーを注いだ。
「いやぁ、全く。野崎先生は艶福家だから」
と、夜の蝶にかしずかれた三人の老人が笑った。
三人は、早紀もその名を知る医学界の大御所たちだった。
午前中、小松空港に着いた野崎と早紀は、この三人の高名な内科医と合流し、地元大学の教授陣と昼食を共にした。
そして兼六園や武家屋敷を観光した後、金沢屈指の料亭で、テレビでよく見かける政治家との晩餐会に出席した。
早紀は野崎の秘書という肩書で同行したが、全てがVIP待遇で、改めて野崎の政治力を目の当たりにした。
一介のMRでは、声をかけることすら憚られる三人の医師は、ホステスそっちのけで早紀に話しかけてきた。
「谷口君、先生方はすっかり君のファンになったみたいだな」
野崎がわざとやっかむような口振りで、会話に入ってきた。
「あ、ありがとうございます」
早紀は困惑を隠せず、ぎこちなく礼を述べるのが精一杯だった。
「では先生方のご厚志にこたえて、今年の人間ドックは、先生方に診察して戴くことにしたまえ」
三人は膝を打って大笑いし、早紀のどの部位を診察するかで大いに盛り上がった。
明日講演があることを理由に、野崎と早紀は三人と別れ、黒塗りの車で駅前にそびえる高層ホテルへと向かった。
「あの三人の先生は俺の大切な後ろ盾だ。学会の期間中、ご機嫌を損ねないように注意してくれ」
野崎は本物の秘書に対するかのような口調で、早紀に指示を出した。
そして膝の上に置かれた早紀の手に、さりげなく手を伸ばした。
「後で私の部屋に来たまえ」
車の後部座席で、野崎は早紀の手を握りながらそう耳元で囁いた。
早紀は野崎の毛深い手を拒まなかった。
(仕事のため…)
懸命に自分にそう言い聞かせた。
それだけが今の早紀に与えられる免罪符だった。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
「黄昏時、西の紅色空に浮かぶ三日月」に戻る