『追憶の白昼夢』 第八章
『追憶の白昼夢』
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(八)
「何にやにやしてるの?」
城ケ島から横浜へ戻る車の中で、彩香は不審そうに尋ねた。
「いや、別に」
私はラジオのボリュームを落とした。
「嘘、今の哲ちゃんの顔は、何かエッチなことを考えてる時の顔だわ」
「ほう、鋭いな。実はさっき君が海で話していた、初めての夜のことを思い出していたんだよ」
私が少し意地悪気にそう言うと、彩香は
「嫌だ、恥ずかしいわ」
と、とたんに頬を赤く染め、窓の外へと目を逸らした。
しかしその声には、どこか鼻にかかる甘えた響きがあった。
翡翠色のタイトスカートから覗く組んだ両脚が、艶めかしく眩しい。
顔立ちこそ昔と変わらない彼女だが、その内側は芳醇に成熟しているのだろうか。
むっちりと豊かに迫り上がった胸の膨らみが、目に見えない変貌を予感させた。
「こうしているとあの頃のままだな」
「本当、哲ちゃんの横にいると、私も二十歳の頃に戻っていくみたい」
「楽しかったな」
「うん、嫌いになって別れたわけじゃないもの。だからあの頃の気持ちのままこうして話せるんだわ」
彩香は会津の旧家の一人娘、そして私も一人っ子だった。
大学を卒業すると、彩香は東京での就職も許されず、実家につれ戻され、ピアノの教師となった。
私は人生を呪った。
しかし私とて親と就職の内定を投げ捨てて、南雲家の婿養子に入る決断はできなかった。
こうして遠距離で、しかも結婚という目標達成が難しくなった二人は、次第に離れていき、やがて連絡をとることもなくなっていった。
彩香が地元の公務員を婿養子に迎えたと大学時代の共通の友人から聞いたのは、私が結婚した翌年のことだった。
車からランドマークタワーが遠くに見え始めた頃、西の空は茜色の雲の緑を彩り始めていた。
私たちは高速道路を降りると、山手の丘にある洒落たイタリア料理の店に車を停めた。
窓際のテーブルからは、オレンジ色の照明に浮かんだ港が一望できる。
ベイ・ブリッジを飾る青白いライトの明滅が、夜の港町に幻想的は雰囲気を与えている。
「このお店も昔のままね。でもこの窓から見える景色は、昔の方がずっとムードがあったわ」
「そうかな?」
「うん、だってあの頃、哲ちゃんと一緒なら何でもロマンチックに見えたもの」
彩香はそう言うと、焼き立ての香ばしいピッツァ・マルゲリータに手を伸ばした。
彼女の薬指の結婚指輪が目についた。
半ば恋人時代に戻った錯覚に陥っていた私は、改めて彩香が他人の妻であることを思い知らされた。
心地よい白昼夢から無理矢理覚醒させられた不快感が、欝々と全身に拡がっていく。
初めから十分過ぎるほどわかっていたことだったが、行き場のない嫉妬心がふつふつと湧き上がってくる。
私はワインを呷った。
「相変わらずピアノを教えているのか?」
「ええ、今、生徒は三十人。上は高校生から下は幼稚園まで、悩み相談と保育所が一緒になったみたいよ。ゆっくりできるのは、午前中に自分がレッスンする時だけ」
「どこで教えているの?」
「実家の近くにマンションを借りて住んでいるんだけれど、そのひと部屋を教室にしているの。窓から鶴ヶ城の天守閣がよく見えるわ」
私は煙草に火をつけると、軽さを心がけて切り出してみた。
「ご主人はどんな人」
その刹那、彩香の表情が曇ったのを私は見逃さなかった。
「そうね、優しい男性よ。私より五つも年上だから、落ち着いてて何でも言うことを聞いてくれるわ」
「子供は?」
「まだ。もう私も『マル高』だから最後のチャンスなんだけど、彼はあまりこだわっていないみたい」
彩香は他人事のようにそっけなく答えて、再び窓の外に広がる夜景を眺めた。
つづく…
皆様から頂くが小説を書く原動力です
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「何にやにやしてるの?」
城ケ島から横浜へ戻る車の中で、彩香は不審そうに尋ねた。
「いや、別に」
私はラジオのボリュームを落とした。
「嘘、今の哲ちゃんの顔は、何かエッチなことを考えてる時の顔だわ」
「ほう、鋭いな。実はさっき君が海で話していた、初めての夜のことを思い出していたんだよ」
私が少し意地悪気にそう言うと、彩香は
「嫌だ、恥ずかしいわ」
と、とたんに頬を赤く染め、窓の外へと目を逸らした。
しかしその声には、どこか鼻にかかる甘えた響きがあった。
翡翠色のタイトスカートから覗く組んだ両脚が、艶めかしく眩しい。
顔立ちこそ昔と変わらない彼女だが、その内側は芳醇に成熟しているのだろうか。
むっちりと豊かに迫り上がった胸の膨らみが、目に見えない変貌を予感させた。
「こうしているとあの頃のままだな」
「本当、哲ちゃんの横にいると、私も二十歳の頃に戻っていくみたい」
「楽しかったな」
「うん、嫌いになって別れたわけじゃないもの。だからあの頃の気持ちのままこうして話せるんだわ」
彩香は会津の旧家の一人娘、そして私も一人っ子だった。
大学を卒業すると、彩香は東京での就職も許されず、実家につれ戻され、ピアノの教師となった。
私は人生を呪った。
しかし私とて親と就職の内定を投げ捨てて、南雲家の婿養子に入る決断はできなかった。
こうして遠距離で、しかも結婚という目標達成が難しくなった二人は、次第に離れていき、やがて連絡をとることもなくなっていった。
彩香が地元の公務員を婿養子に迎えたと大学時代の共通の友人から聞いたのは、私が結婚した翌年のことだった。
車からランドマークタワーが遠くに見え始めた頃、西の空は茜色の雲の緑を彩り始めていた。
私たちは高速道路を降りると、山手の丘にある洒落たイタリア料理の店に車を停めた。
窓際のテーブルからは、オレンジ色の照明に浮かんだ港が一望できる。
ベイ・ブリッジを飾る青白いライトの明滅が、夜の港町に幻想的は雰囲気を与えている。
「このお店も昔のままね。でもこの窓から見える景色は、昔の方がずっとムードがあったわ」
「そうかな?」
「うん、だってあの頃、哲ちゃんと一緒なら何でもロマンチックに見えたもの」
彩香はそう言うと、焼き立ての香ばしいピッツァ・マルゲリータに手を伸ばした。
彼女の薬指の結婚指輪が目についた。
半ば恋人時代に戻った錯覚に陥っていた私は、改めて彩香が他人の妻であることを思い知らされた。
心地よい白昼夢から無理矢理覚醒させられた不快感が、欝々と全身に拡がっていく。
初めから十分過ぎるほどわかっていたことだったが、行き場のない嫉妬心がふつふつと湧き上がってくる。
私はワインを呷った。
「相変わらずピアノを教えているのか?」
「ええ、今、生徒は三十人。上は高校生から下は幼稚園まで、悩み相談と保育所が一緒になったみたいよ。ゆっくりできるのは、午前中に自分がレッスンする時だけ」
「どこで教えているの?」
「実家の近くにマンションを借りて住んでいるんだけれど、そのひと部屋を教室にしているの。窓から鶴ヶ城の天守閣がよく見えるわ」
私は煙草に火をつけると、軽さを心がけて切り出してみた。
「ご主人はどんな人」
その刹那、彩香の表情が曇ったのを私は見逃さなかった。
「そうね、優しい男性よ。私より五つも年上だから、落ち着いてて何でも言うことを聞いてくれるわ」
「子供は?」
「まだ。もう私も『マル高』だから最後のチャンスなんだけど、彼はあまりこだわっていないみたい」
彩香は他人事のようにそっけなく答えて、再び窓の外に広がる夜景を眺めた。
つづく…
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