『蟻地獄』 第十章
『蟻地獄』
十
ダイニングに戻った佳美は、川崎の隣に座ってまた仲良く話し始めた。
「川崎君、今度彼らのコンサートへ一緒に行きましょうよ」
「いいですね・・あ、でも課長は知らないですよね」
「うん、パパはフォーク世代だからね・・ねえパパ、川崎君と二人でコンサートへ行ってもいいでしょう?」
甘ったれた鼻声で、佳美はリビングにいる和彦に聞いた。
ラジコン・ヘリを磨く手が震えた。
(ついに来るべき時が来たか・・)
結婚を機に、芸能界を引退する女優はたくさんいる。
だがそのほとんどは、目映いスポットライトが忘れられず、再び銀幕の世界へと戻って行く。
色恋乱れる夜の社交界に疲れた佳美は、ごく平凡な女の暮らしに憧れていた。
そこへたまたま和彦が通りかかった。
ごくありきたりなサラリーマンの和彦は、まさに佳美のイメージ通りの共演者だったのだ。
だが蝶は蟻にはなれない。
まだ若い佳美には、華やかな恋への未練が残っているに違いない。
和彦は口唇を戦慄かせた。
「ああ、いいよ・・楽しんでおいで」
にこっと笑いをつくった和彦は、再びラジコン・ヘリを磨き始めた。
許さなければならない。
分不相応な女を娶った凡夫の宿命だと、和彦は自分に言い聞かせた。
飛び疲れた夜の蝶が、和彦と言う枝で羽根を休めただけなのだ。
癒された蝶が、再び飛び立つのを誰も止められない。
佳美の新たな旅立ちを見守ってやろう。
一時でも若い肉体を独り占めできた喜びを、奇跡と墓石に刻むことで満足すべきだろう。
つづく…
「黄昏時、西の紅色空に浮かぶ三日月」に戻る
十
ダイニングに戻った佳美は、川崎の隣に座ってまた仲良く話し始めた。
「川崎君、今度彼らのコンサートへ一緒に行きましょうよ」
「いいですね・・あ、でも課長は知らないですよね」
「うん、パパはフォーク世代だからね・・ねえパパ、川崎君と二人でコンサートへ行ってもいいでしょう?」
甘ったれた鼻声で、佳美はリビングにいる和彦に聞いた。
ラジコン・ヘリを磨く手が震えた。
(ついに来るべき時が来たか・・)
結婚を機に、芸能界を引退する女優はたくさんいる。
だがそのほとんどは、目映いスポットライトが忘れられず、再び銀幕の世界へと戻って行く。
色恋乱れる夜の社交界に疲れた佳美は、ごく平凡な女の暮らしに憧れていた。
そこへたまたま和彦が通りかかった。
ごくありきたりなサラリーマンの和彦は、まさに佳美のイメージ通りの共演者だったのだ。
だが蝶は蟻にはなれない。
まだ若い佳美には、華やかな恋への未練が残っているに違いない。
和彦は口唇を戦慄かせた。
「ああ、いいよ・・楽しんでおいで」
にこっと笑いをつくった和彦は、再びラジコン・ヘリを磨き始めた。
許さなければならない。
分不相応な女を娶った凡夫の宿命だと、和彦は自分に言い聞かせた。
飛び疲れた夜の蝶が、和彦と言う枝で羽根を休めただけなのだ。
癒された蝶が、再び飛び立つのを誰も止められない。
佳美の新たな旅立ちを見守ってやろう。
一時でも若い肉体を独り占めできた喜びを、奇跡と墓石に刻むことで満足すべきだろう。
つづく…
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