『蟻地獄』 第一章
疑心から逃れようと もがけばもばくほど
足元崩れて 深みに嵌り堕ちていく。
主人公が最後に見た世界は、夢幻だったのだろうか?
『蟻地獄』
一.
うとうとと眠ってしまったらしい。
目が覚めると、そこは静寂な闇だった。
わずかに蛍光灯のナツメ球が、四畳半の部屋を橙色に仄暗く照らしている。
時計の針は午前二時を指していた。
昨夜の記憶が蘇る。
大学のサークルでコンパがあった。
三次会までとことん飲んで、千鳥足でアパートまで歩いて帰って来たのだった。
(確か終電がなくなって、由香と松浦も泊まったはずだが?)
由香は、同じ大学のテニスサークルに所属する同期生で、つきあい始めて一年になる恋人である。
たくさんの男友達がいる中、半年がかりで口説き落とし、今ではこのアパートへ泊まりに来る関係になっていた。
一方松浦も、同じサークルの仲間で、毎晩のように飲み歩く親友だった。
もちろん由香とも顔見知りで、彼女がいない松浦とは、時々三人で食事をする親しいつきあいをしていた。
ところが部屋を見渡しても二人の姿はなかった。
眠り込む前は、左に由香、右に高橋、三人で雑魚寝したはずだった。
ふと囁き声が聞こえた。
襖を隔てた隣のダイニングから、微かに細い蛍光灯の明かりが漏れている。
「・・松浦君・・」
耳を澄ますと、由香の押し殺した声が聞こえてきた。
(一体こんな夜更けに・・)
喉が渇いて水を飲んでいるのか、トイレへ行くのが一緒になったのか、二人のぼそぼそとした会話が続いている。
「・・でも、いけないことだわ・・」
「どうして・・僕の気持ちはわかっているはずだろう?」
途切れ途切れに聞こえている声は、恋人と親友の間柄に不釣り合いな深刻さを含んでいた。
不安が暗雲のように広がる。
そっと襖を細く開けると、明かりが漏れるダイニングを覗き込んだ。
つづく…
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